【用語解説】尾崎秀実

尾崎秀実は、大正期から昭和期にかけて朝日新聞社に勤めていた人物で、共産主義者であり、ソ連のスパイでもありました。

幼少期・学歴

尾崎は、明治34(1901)年に二男として東京に生まれ、幼時から台湾で過ごし、台北一中を卒業します。

そして、難関の入試を突破し、第一高等学校に進みます。大正11(1922)年、第一高校を卒業し、東京帝国大学に入学。尾崎は、高等文官国家試験(高文)に不合格となりますが、大正14(1925)年に同大学を卒業。また、同大学院に一年在学します。尾崎は手記の中で、「大学院では『唯物論研究会』に参加した」こと、「様々な左翼系の書物に触れた」こと、「大正14年頃には共産主義のシンパになった」ことを述べています。

メディアでの経歴ほか

尾崎は、大正15(1926)年に朝日新聞社に入社し、大阪朝日では特派員として上海に派遣されました。また東京朝日では東亜問題調査会に所属し、昭和13(1938)年7月には朝日新聞社を退社します。

尾崎は、複数の雑誌への記事の寄稿もしており、日中戦争の不拡大方針に否定的な論調で記事を寄稿していました。

尾崎は近衛文麿のブレーン組織(シンクタンク)であった「昭和研究会」に昭和12(1937)年から参加しています。近衛文麿は戦前に3度首相を務めた人物です。尾崎は昭和研究会の中の「支那問題研究会」に参加。尾崎を支那問題研究会にリクルートしたのは、風見章という人物でした。また尾崎は「昭和塾」の講師や幹事ともなりました。昭和塾は昭和研究会を母体とした人材育成機関でした。また尾崎は、政策研究会「朝飯会」に参加し、第一次近衛内閣(当時)の嘱託としても勤務しています。この他、昭和14(1939)年6月からは、満鉄調査部の嘱託ともなっています。満鉄調査部は、南満州鉄道の調査部門で、「日本のシンクタンクの源流」とも言われ、満州事変後は軍部との結びつきが強くなった組織です。

尾崎は、近衛文麿からの信頼が厚く、中国問題の専門家として近衛に助言を行っていました。また尾崎は汪兆銘の新政権工作にも関与していました。汪兆銘は、国民政府の重鎮で、1920年代中ごろから蒋介石と対立しており、日本の傀儡政権である「南京国民政府」を昭和15(1940)年に樹立しています。また、尾崎はある会合で「ビルマ・マレー作戦をやろう」と主張し、石原莞爾に激怒されたことがあったといいます。

ゾルゲ事件

大東亜戦争開戦の3か月前には、国際スパイ事件である「ゾルゲ事件」が発覚しました。

尾崎は、ゾルゲ事件の首謀者として逮捕され、一審で死刑判決が下されています。その後、昭和19年(1944)年に尾崎は刑死。死刑執行日である11月7日はロシア革命記念日でした。

尾崎秀実

(了)

主な参考元

「尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男」
太田尚樹
(吉川弘文館)

「私の現代史シリーズ 昭和研究会 ある知識人集団の軌跡」
酒井三郎
(TBSブリタニカ)

「崩壊 朝日新聞」
ジャーナリスト 長谷川 熙
(ワック)

「『戦争と平和』の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム」
駿台予備学校 世界史科講師 茂木誠
(TAC出版)

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