【用語解説】天安門事件(第2次)

天安門事件(第2次天安門事件または六四事件)は、1989年6月に、民主化を求めて天安門広場に集結していた学生らを、中国当局が戦車や装甲車などを用い武力鎮圧した事件です。

時系列略記

1989年4月15日に元総書記の胡耀邦氏が心筋梗塞で死去すると、彼の死を悼む学生たちが天安門広場に集結し始めます。この学生たちの終結が以降2か月弱続くことになります。

4月26日には党機関紙に学生たちの集結を“動乱”とする社説が掲載され、学生たちが憤怒します。この社説掲載を機に運動は盛り上がりを見せることになります。27日には北京の多くの大学で、この社説に反対する壁新聞が貼られ、5月13日には社説の撤回を求めるハンガーストライキ(絶食による抗議)が開始されます。5月17日にはデモの参加者が100万人に達し、20日には李鵬首相の名義で北京市内の一部地域に戒厳令が発令されます。

そして、6月3日の夜には武力鎮圧が開始されるに至り、翌4日の朝には広場の学生たちが引き揚げ始めます。

5日の長安街では、ひとりの男性が戦車の前に立ちふさがったうえ戦車によじ登り車内の軍人に抗議しようとする姿を、西側メディアの記者たちが撮影しました。結局男性は周辺に居た別の男たちにその場から連れ出されますが、男性は事件の象徴的存在として広く知られることになりました。

改革派の胡耀邦

1987年、当時総書記であった胡耀邦氏は、前年の民主化運動に寛容的であったとして辞任させられます。そして、この後任には趙紫陽氏が就くことになりました。

「改革派」と呼ばれる派閥に属していた胡氏は、民主主義的な考えを持ち、学生にも人気がありました。また、胡氏は親日家としても知られ、日本の中曾根康弘首相(当時)とも懇意な間柄でした。胡氏は死去する直前まで政治改革を訴えていたと言われています。

そして、彼の死を契機とした学生の終結が、6月の武力鎮圧へと繋がってゆきます。

政権内部の動き

当時、中国政府の最高実力者はトウ小平氏でした。トウ氏は、「動乱」社説の掲載にあたって強硬な社説を出すべきとの意向を示したうえ、戒厳令発令の意向も示したとされています。

これに対し改革派の趙氏は、「動乱」社説の撤回を提案したうえ、戒厳令発令にも反対するなど、学生たちに対して寛容的でした。

趙氏も胡氏と同様に民主主義的な考えを持っていたと言われています。

しかし趙氏は、事件後に開かれた党の総会で総書記を罷免され、その後2005年に死去するまで自宅に幽閉されることになります。

武力鎮圧の実態

当局による鎮圧では、学生たちが銃撃されたり戦車で轢かれるなどして多数の死傷者が出ました。

事件の死者数については、のちに李氏が319人であると日本の訪中団長に語っていますが、実際には1万人程度にのぼるとの説があります。

死傷者は特に、大規模衝突が発生した木せい地(もくせいち=天安門広場から西に5キロほどの地点)に集中したとされています。

天安門広場周辺略図

(了)

主な参考元

現代ビジネス
「天安門事件から30年、中国の民主化はなぜ失敗したのか」
2019.6.4
元テレビ朝日北京支局長 安江 伸夫
URL(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64963)

NHKホームページ
「天安門事件 事件までの知られざる50日」
2019.9.6
URL(https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190815/index.html)

BBC NEWS JAPAN
「中国の李鵬元首相、90歳で死去 「北京の虐殺者」と呼ばれ」
2019.7.24
URL(https://www.bbc.com/japanese/49083679)

JCASTニュース
「加藤千洋の「天安門クロニクル」(18) 再考「流血の夜」 (上)いまだ疑念は拭えず」
2019.4.27
平安女学院大学客員教授 加藤千洋
URL(https://www.j-cast.com/2019/04/27356207.html?p=all)

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